九州ゴー宣道場の締め切り日である。
最近の主要オケのコンサートで、モーツァルトを取り上げることが明らかに減った。
読売日響が出した統計でも激減しているし、N響の2018・2019シーズンではなんとプログラムの中に0。
指揮者や音楽監督の意向はもちろんあるかもしれないが、演奏家にとってモーツァルトは永遠の故郷かつ魔物かつ神秘かつ究極形みたいなもので、いくつになっても立ち向かうべき対象だし、噛めば噛むほどじゃーじゃー味がでる高野豆腐みたいなもの(するめじゃないのか)だから、忌避しているとは思い難い。当然、クラシックの市場原理と無縁ではいられないため、客のニーズとの兼ね合いで決まる。
では、なぜ少ないのか。
答えは簡単、わかりにくいからである。
一見耳障りは良く、モーツァルトを聴かせると牛の乳が良く出るなどというが、チャイコフスキーやラフマニノフのように慟哭のメロディはないし、ブラームスのようなねちっこさやマーラーのような躁鬱いったりきたりしてやっぱり鬱なんかい、みたいな闇も見えにくい。
しかし、モーツァルトはその一見した明るさやハイテンションですべてを隠している。この世に明るいだけ、気持ちいいだけ、こんなものは存在しない。つまり、モーツァルトの音楽も、巧妙な嘘で彼の本当の闇や孤独や悲しみを隠している。
「悲しくなければ音楽ではない」という彼の言葉はこの文脈で語られている。
ソナタ形式の中でも、端々に「もうあそこには戻れない」という寂寥感をちりばめているし、私は勝手に「モーツァルトの退行現象」と呼んでいるが、必ずどの曲の中でも楽曲の中で幼児モーツァルトが現れる。彼の中にある成熟しすぎた幼児という異常性が突然場面を変えたように登場する。BGMとして聴いていたりすると、「はっ」と声を上げてしまうほどだ。スピーカーを向けば、幼児モーツァルトがケラケラ笑っている、寂しそうでもあれば、どけているときもあるし、諧謔的なときもある。
日本ではピアノなんかを習っても音楽教育で最初にモーツァルトをやる。しかし、こんなの天才演奏家でもなければ、子供のときにはわからない。どの演奏家も口をそろえて言うのは、モーツァルトは、エキゾチックではにかみ屋の皮肉屋で裏の裏をかきまくった大人の音楽なのである。
この「わかりにくさ」は、はっきりいって現代社会とはそりが悪い。
現代は、わかりやすいものでなかれば、マーケットや大衆に受け入れられない。刺激的なもの、表面的なもの、派手なもの、即効性のあるもの、目に見えるもの。
安倍政権が長寿化し、野党を育てることができず、トランプや右派ポピュリズムが大手をふって歩く社会では、モーツァルトは窒息してしまう。
先日引退したマリアジョアンピリスの演奏は、現代社会が失いつつあるものがすべて詰まっていた。わかりやすさや大衆受けとは真逆なシンプルの極みといった演奏。本当に「過不足ない」演奏を初めて聞いた。まるでそこに最初からあるものを「ほら」と指さされたような演奏だった。彼女が最後の演奏のプラグラムに選んだのは、モーツァルトである(メインはシューベルトだったが、これまたわかりにくい)。彼女のような芸術は、現代社会では生息地帯がないのか、ということと同時に、このような静謐な芸術が世界から消えていくことに本当に寂しい思いがした。
真の芸術を目の当たりにすると、日常がばかばかしくなる。ばかばかしくなった後に、自分がどれだけちっぽけか再認識してやる気がでる。
この、モーツァルト的な感性が理解されない社会は、憲法の議論が市民の間でなされない社会と通底しているものを感じる。
もっとわかりやすく、即効性があり、勇ましくて金ぴかのものをくれ!
わかりにくいものは「わかりにくい」というレッテルを貼ればそれだけでおしまい。「日常生活に関係あるの?優先順位は?必要性は?」次から次へと憲法議論を劣後させる矢が四方八方から飛んでくる。
憲法論議は、安倍加憲を止めるためだけにあるのではない。
安倍加憲が止まっても、安保法制前の社会に戻るものでもない。
より良い社会の制度設計と憲法は無関係なのか?無力なのか?そうではないはずである。
諸外国では、政策課題とともに憲法が語られる。銃規制、政治献金、政治参加におけるクオータ、食の安全・・・
6月10日のゴー宣道場では、これらを意識して議論をしていきたい。
また、このキャンペーンが終わっても、やっと芽生えた憲法論議のつぼみを、あちこちから咲かせられるように、水を注ぎ続けなくてはならない。